2020-02-28

倉橋惣三を読もう

「泣いている子がある。涙は拭いてやる。泣いてはいけないという。なぜ泣くのと尋ねる。弱虫ねえと言う。ずいぶんいろいろのことは言いもし、してやりもするが、ただ一つしてやらないことがある。泣かずにいられない心持ちへの共感である。
 お世話になる先生、お手数をかける先生。それは有難い先生である。しかし有難い先生よりも、もっとほしいのは嬉しい先生である。その嬉しい先生はその時々の心持ちに共感してくれる先生である。」

「幼児保育の要諦を一語に尽くすものがあるとすれば、それは親切である。親切のないところに、保育の理論も経験も、工夫も上手もない。その反対に、親切のあるところ、一切の欠陥をまずさとを覆うて余りある真の保育が実現する。親切とは相手に忠な心であり、相手のために己を傾け注ぐ態度である。相手から求められない前に、その求めるところを見つける目であり、聞きつける耳であり、さらに常に懇ろに行き届く心であり手である。
 理論がよく分かりませんでと言い、経験が足りませんでと言い、気のきかない性分でと言う。その実は親切が足りなかったのではあるまいか。少なくとも、一点、不親切が混じっていたのではあるまいか。私の親切をあんなにも信じきっていてくれる子らに対して。――私はしばしば自らぞっとする。」

「子どもたちを送る日
何たる縁か。こうして親しく、あなたのためには大切な幾年を、日々に一緒に楽しみ得たことか。
 「教育」。そんなことよりも、あなたを迎える朝な朝なが私の楽しみでした。
 「あなたのため」。そんなことよりも、あなたと一緒に遊ぶことが私の喜びでした。
 ただね、今になって考えてみると、ずいぶん行き届かなかったことが多かったと、それがすまないのですよ。
 けれどね、ごめんなさいなんて、そんなことは決して言いませんよ。私の足りないことを、あなたは何とも思ったりしていないと、それが、しっかり、私に分かっているから――。もしそうでなかったら、こんなに、にこにこと、あなたの修了をお送りできるものですか。
 「いい先生」、そんなこと、どうでもいいのね。あなたの好きな先生だったのですものね。ほんとうに、そうだったんですのね。」

「子どもを教育するのは教育者の責任である。しかもこれは、教育者としての一面の責任に過ぎない。この、外へ向かっての責任と共に、内へ向かっての責任がある。自分を教育することである。ただし、この責任は何事にもあることに相違ないが、外へ向かって教育を行う者において、特に強く感ぜられる責任である。一般の仕事は、外に向かってのみ行われるのでも済む。教育という仕事においては、そこが全く違うのである。
 まず内へ向かっての教育なくして、外へ向かっての教育はありえないことである。
 すべての教育は自己の教育に発するといっては言葉が過ぎるかもしれない。しかし、少なくとも教育の真の迫力は、この謙遜なる自己教育の心からのみ出る。」

「子どもが帰った後、その日の保育が済んで、まずほっとするのはひと時。大切なのはそれからである。子どもと一緒にいる間は、自分のしていることを反省したり、考えたりする暇はない。子どもの中に入り込みきって、心にちょっとの隙間も残らない。ただ一心不乱。子どもが帰った後で、朝からのいろいろのことが思いかえされる。我ながら、はっと顔の赤くなることもある。しまったと急に冷汗の流れ出ることもある。
 ああ済まないことをしたと、その子の顔が見えてくることもある。一体保育は・・・。一体私は・・・。とまで思い込まれることもしばしばである。大切なのはこの時である。この反省を重ねている人だけが、真の保育者になれる。翌日は一歩進んだ保育者として、再び子どもの方へ入り込んで行けるから。」

「飢えと寒さが人々を襲う季節が来た。痛心にたえない。さらに、その不幸の底に多くの子どもたちがいることを思う時、一層の痛みが胸に迫る。誰かの手に護られない限り、自ら護ることのできない子どもたちの不幸こそ、世に痛ましいものの限りであり、殊に、何の不平を言うでもなく、痩せながら凍えながら、遊び戯れている小さい姿こそ、世に最もいじらしいものの限りである。
 暖かく着、豊かに養われて、家庭の愛護を一身に占めている子どもたちを見る時、薄幸なる同い年の子らのことが思われてならない。それも、幸福の子一人に不幸の子幾十幾百人の割合をもって数えなければならぬのである。
 ああまた今日も寒い風が吹く。この子を抱いてやるにつけ、忘れていられないのは、あの沢山の子どもたちの薄着と空腹とである。」

「人間を人間へ教育しつつあるということは、我らの、一日も一刻も忘れてならないことである。またこの信念においてのみ、我らの日々の業務がほんとうに意味づけられる。あるいは、この故にこそ我ら自身が生命づけられるというものである。教育の必要性を、それぞれの方面と部面とにおいて、いろいろに主張する論もある。しかし、我らの責任感の出発も帰結も、この教育大本の自覚によって初めて厳かである。子どもと共に嬉々としてあそび暮らしつつ、人間教育の厳かさに生きるもの、それが幼児教育者である。」

「人間の偉大さを知る者のみが、人間を教育することの偉大さを知りうる。
 人間に関する浅薄卑俗なる解釈、人間に関する無知と無感激。これほど教育上有害なものはない。凡庸主義は、いつでも麻痺剤である。教育においては殊にそうである。世にこれほど有害なるものはない。
 自分において、人間の偉大さを信じうる者は、もっとも幸福である。古今の偉人天才において、人間の偉大さを見出しうるものは、その次に幸福なる人である。その人は人間がどこまで偉大でありうるかを事実によって証明せられて、それによって絶えず感激を与えられて、人間に対する信念をもって人間を教育することができるからである。
 子どもを偉大なものにこしらえあげようというのではない。この子どもが偉大なものになることを信じて教育するのである。
 この子が日蓮になるかもしれない。この子がベートーベンになるかもしれない。私は驚き後ずさりしてその子どもを見る。その時私の目は、日蓮やベートーベンにおいて見てしっている人間の偉大さをもって子どもを見ているのである。もし私がこれらの偉大なる人間について少しも知らなかったなら、かくまで積極的な見方をもって、この子どもたちを見ることはできなかったであろう。
 私は心理学によって子どもを知り、教育学によって子どもの教育法を学ぶ他に、絶えず人間の偉大さを知らなければならない。絶えず心にその感激を湛えていなければならない。そうでない時、私の目は子どもにおいて凡庸だけを見るものとなるであろう。」

「うしろ向き
 わたしが子どもをじっと見るのは、そのうしろ向きだ。まえ向きに相対しては、笑みかわすか、話しあうか、手をとりあうか、戯れに争う形をとるか、なににしても相互いの交渉であって、じっと見る暇も隙も隔てもない。ただ、うしろ向きだけは、心をこめて眺めることができる。
 絵を描いている子の、少し斜めに傾いて一心な首すじ。砂場に遊ぶ子の、力を盛り上げた両の肩。小鳥に見入っている子の、すらりとしてわだかまりのない立ち姿。さては、かがみ腰に毬をついている子の、房々とお下げのゆらぐうなじ。なんという豊富な表情であろう。
 前に回っても見たいが、目をあわせては、その無心を乱すおそれもある。せめては横顔をとも思うが、いいえいいえ、そっと、しかし、じっと、うしろから眺めさせて貰っておこう。そこでは、子どもの心の動きに、ただ同じ方向にのみ追随していることも出来るのであるし。」

「民主主義教育では、一切叱るということは無いのですか。」
「とんでもない。」
「やっぱりありますか。」
「ほんとうの自由の生活では、自分で自分を叱るんでしょう。その、自分で自分を叱る力のまだ弱い子どもには、傍らからその力を手伝ってやらなければなりませんね。」
「それはそうですが。」
「それが、つまり、叱るということでしょう。」
「こわい目をして。」
「ハハハ、自然にこわい目になりましょう。子どもの方から見て。その位でなくちゃあ、力の手伝いになりません。」
「なんだか非民主的のようですね。」
「どうして。」
「個の独立を妨げますもの。」
「妨げるんじゃない。助けるんですよ。」