2020-07-07

L.A.ポール『今夜ヴァンパイアになる前に』読みました

今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門 – 2017/5/29
「私たちはまず自分たちのいろいろな選択から生じうる様々な主観的未来について個別的かつ具体的に考え、それから、それらの価値を見定めてそれらの未来を注意深く評価・選択し、そのうえで、どの未来を自分が選好するかを特定して、その未来を最ももたらしてくれそうな行為を、ある種の権威のもとで選択する、といった具合である。期待値の異なる諸行為を比べたうえで自分の期待値を最大化するように行為を選択することによって、自分の選好に即して私たちが行為するなら、真正性、行為主体によるコントロール、熟考のうえでの見定めは、規範的な合理的基準によって導かれており、それによって私たちは、熟慮を伴う真正の推論を合理的な選択や合理的な行為と結びつける規範的な図式を手にするのである。
 しかし、これまで論じてきたように、私たちの人生における大きな決断の多くは、認識と個人の両方を変容させるような経験に関わっており、その事実は先ほどの図式をズタズタにしてしまいかねない。人生に対して合理的にアプローチする際には、私たちは、自分自身が未来にいると主観的に見越して、今後生じうる主観的な未来を検討しようとすることで、自分の選択を特定の権威のもとでコントロールするわけだが、変容的な選択の諸事例においては、自分の未来の経験や選好のありようがわかることに認識上の限界があるため、そうした人生へのアプローチの合理性は損なわれてしまう。そういった選択に直面するとき現代の私たちは、自分自身の未来を我がものにしたいと思う。そういった欲求は、自分がたどりたい人生の道筋を熟考・熟慮するときのやり方に表される。しかし、そんな欲求を満たすことはできないのである。
 変容的な選択からこういった問題が生じるのはなぜだろうか。その理由はこうだ。私たちの個々の意思決定の視座は、私たちの意識的な現在が記憶から期待へと展開していくつながりの只中に位置している。しかし、そうした心の位置から決断を行なうことは、規範的な合理的行為の基準を暗に規定している三人称的な視座とは相容れないものなのである。
 自分の一人称的な視座を使って現在から未来へとどう舵取りすべきかについて決断しなくてはならないまさにそのときに、私たちは、未来に生じる帰結に主観的価値を割り当てることができないという事態に直面する。」(116)
吸血鬼になったらどういうふうになってるかわからないので、私たちはこのままでいるか、吸血鬼になるか、比べてこっちがいいというふうに選ぶことはできない。今が幸せな人はならないだろうし、今が楽しくない人はなるだろう。ドラッグや宗教も同じか。