2020-08-23

佐々木閑&小原克博『宗教は現代人を救えるか 』読みました

佐々木閑&小原克博『宗教は現代人を救えるか 』、平凡社新書、2020年.

「日本人で「私は無宗教です」と宣言している人がよくいるが、それは実際には「私は宗教について無知な愚か者です」と告白しているに等しい。ハラリの言説からわかるとおり、現代社会でなんらかの宗教色に染まらずに生きている人など、ほぼあり得ないのである。そういった私たちを取り囲む無数の宗教は、多かれ少なかれ、「この生き方こそが幸福への道だ」と主張する。たとえば朝から晩までメディアのコマーシャルを見せられ聞かされている大勢の人たちは、知らぬ間に「より多くの物、より新しい物を持つことが幸福への道だ」という資本主義宗教に洗脳され、その信者になっている。自分が洗脳されていることに気づかないくらいどっぷりと宗教世界に浸っていながら、「私は無宗教です」などと言う。これが、宗教を知らないということの危険性である。〔中略〕私たちは、宗教とは自分で選ぶものだと思い込んでいるが、実際には、私たちが選ぶ前に勝手に私たちの世界へ入り込んでくる宗教も数多い。そして気づかぬうちに私たちの生き方をコントロールし、時には、よい方向へと導くこともあるが、不幸へと突き落とすこともある。何度も言うが、私たちは様々な宗教に取り囲まれて生きている。そしてそれらの中には、私たちを苦しみや不幸へと導く危険なものも含まれているし、あるいは、本質的に穏健なものであっても、それが極端に先鋭化することで危険物に変容する場合もある。そんな状況にありながら、今の日本は「宗教にかかわらない」、言い換えれば「宗教のことは教えもしないし、学びもしない」という方針で人を育てている。きわめて危ない状況にあることを自覚すべきであろう。」(13頁)

「自分が苦しみから逃れる道を歩いている、その後ろ姿を、あとに続く人たちに見せて、救いの道を示すのが仏道修行者の利他です。そもそも、出家したお坊さんはお金もなければ家もないわけですから、世俗的な方法で人を助けることはできません。苦しんでいる人たちに、こんな道があるから、来たかったらいらっしゃい、と生き方の実例を見せるだけの話です。それだけが唯一の、他者に対する救いです。〔中略〕これはきわめて利己的に見えますよね。ですから、まさにこれが、大乗仏教がいつも上座説に対して言う批判なんです。誰も助けないじゃないか、世の中の人を助けずして、何が慈悲だと言うんですが、それは違うんですね。出家して修行する世界があるということを背中で見せることが、多くの人を導いて助けるという意味での利他なんです。ここで一つ言っておかなければならないことは、目の前で実際に苦しんでいる人がいた場合、それを出家したお坊さんが見捨てて立ち去る、などという話ではない、ということです。困っている人がいれば助けます。しかしそれを、仏道修行者として為すべき立派な行為だ、などと考えてはならない、ということです。自ら進んで人助けをすることが修行になる、などとは考えない、ということです。 」(46)

「人から認められるのを幸せだと感じるのは人間の基本感情であるとはいえ、それが肥大化すると、皮肉にも根源的な自由を失っていくように思います。」(79)

「チキン供養や針供養などは、善業を積むのではなく悪業を消すんですね。悪業が溜まっているはずだから、それをこれでチャラにしてもらおうという考え方だと思います。供養によって、善業は増えるし悪業は消える。そのうえ、 悟りにも近づける。供養は日本人にとって万能薬なのです。」(169)

「仏教が目指すのは、社会を変えて人々を救うのではなく、社会から疎外された人を受け入れて救うことなのです」(189)

「根本的に違うところは、究極の安楽とはどういう状態かという想定ですね。おそらく、魂が救われて天国に行くとか、神の国が現れるというのは、魂が存在し続ける状態で、最高の幸せが来ることを想定していると思います。それはある意味では、魂が望む欲求が全て叶えられている状態が実現するという、つまり欲求の実現であって、キリスト教ではそれを最終の幸せとしています。ところが仏教の場合には、欲求して何かの状態を得するという、そういった到達目標はないと言っているわけです。では、仏教での最終目標は何かというと、これはつまり、欲求しなくなることです。ですから、そういう意味で、外界との関係性は、安楽の実現にとって何の役にも立ちません。自己変革だけが唯一の道なのです。」(198)

同じ宗教だけど全然違う。同じなのは人間がやってることくらい。